Yoyumeからのメッセージ 2008年03月06日
ヨユメ: 皆様ごきげんよう。
皆さん: ごきげんよう。
(しばらく間があり)
ヨユメ: 皆様ごきげんよう。
皆さん: ごきげんよう。
ヨユメ: 宿題がございましたね。
アナハラセ: はい。
ヨユメ: どのように進めてまいりましょうか? まずは皆様が夫々反省なさったことですね、その中で的外れな、どのようなことでもご自身で反省されればね、それはそれで結構なのですが、ご本人が一番気づいてくださらなければならない、それを気付いて反省されているかどうかなのですよね。 それで本来ならばご自身で気が付かれてというのがよろしいのですが。 時間もそうございませんしね、お助けしようかということになったのですよ。 これはね、ある意味では虎の巻でお答えを見せるようなものかもしれないのです。 が、今、もう皆様はこのように真理の道にお入りになって、すこしでも早く精進を遂げられて、使命を果たしていらっしゃらなければいけない。 そういうことも考えましてね、お手伝いさせていただくわけですよ。 夫々の精進の段階によってね、私どもはそのようなお手伝いをしたり、時には先にお答えを差し上げるというようなこともこれからはございます。
それではよろしいですか、お一人一人反省されたことをお伺いしていくということで。 何方から、
アナハラセ: では、私から言わせていただきます。 この前も皆さんで話し合ったんですけども、一応私が反省した内容というのはやはり愛の物差しを忘れてしまうことですね。 それでやっぱり自分の考えというか、そういうもので意識が一杯になってしまうという、気がつくとそういう状態なのでやはり愛を優先して、いつも意識の中にもっていたい、いつも心の中に持っていたいというところがありまして、間違って解釈しているかもしれないというふうに仰っていたのですけども、それはやはり愛に対する理解というのが、ただ自分の意見を押し通さないというところだけではなくて、時にはおせっかいのように言ってあげる、そう言って差し上げることがその人のためになると思って、黙ってしまうのではなく、言ってあげなければいけないときもある、ということもやっぱり精進の一つではないかというふうに考えました。
ヨユメ: なるほど、勿論、愛の物差しを皆様、使っておられないからです。 お忘れになって、時には愛の物差しを忍ばせてもいらっしゃらないから、こういうことが起こるのです。 すべて、アナハラセだけでなく、全ての方にそれは当てはまることなのです。 的をはずしているというのはね、そういう根本的なところでは、もう皆様は十分お分かりになっていらっしゃる。 反省と言うのはね、日々において具体的に皆さん、精進される上で、このようなところが、それは結局は愛の欠如、ご自分の物差しで測っているから、というところに行き着くのですよ。 ただそれでも日々、ご精進されるに当たって、夫々がどのように気をつけていかれるとそういう行いが段々少なくなっていく。 そのようなことを、私は反省事項としてあげていただきたかったのですよ。 仰っていることは何も間違いはございません。 只、人におせっかいと思われるかもしれない、だけれど愛をもって。 それもそうですよね。 言わないことが−言ってあげないことが−愛の行為であることもあるし、敢えて気を悪くされても、言ってあげることが愛の行為であれば、どちらも正解なのですよ。 一つの答えというのはありません。 ただね、ご精進の仕方として、もうすこし具体性をもって皆様をお導きしたかったのです。 それでは相手の身になって考えられない、自分の物差ししか使えない、そこに原因があるのですが、それでは日々の行いにおいて、それが出来ていないが故に、どのような形で人を傷つけたりしているのか、どういうふうに精進していけば良いのかということなのですよ、そういう意味でね。
それではどうしましょうか、厳しく、辛口で行きましょうか、それともやさしくお手柔らかにをお望みですか?
アナハラセ: 実践しやすいお導きのほうが...
ヨユメ: 実践しやすい、そうですね、そこなのですよ。 的外れという言葉を使いましたが、結局は皆様が少しでも早く精進を遂げられるために、実践しやすいお導きですよね。 そうなりますと具体的なことでお話をした方が宜しいかと思うのですね。 ご自身も気が付いておられることもあれば、そうではない、そういう意味で少し考えなおしてご覧になってみてくださいな。 具体的に、例えばどういうことをどのように精進していかなければいけないと自分は気付いたか、反省したか、それをちょっと教えていただきたい。 愛の物差し、それはそうなのです。 相手の身になれない、それもそうなのです。 でも特に自分はこういう面で愛の物差しが使えていない。 それを知って気付いたら、気付きがあればご精進は早いのですよ。 気付きが無いことが怖いのですよ。
アナハラセ: いつも何かしなければいけないことがあって、自分の都合で動いている場合が多くて、ちょっと面倒くさいだとか、そういうことがあると、その人の立場でそれが良いというふうに考える代わりに、自分の都合でこうだったらと、それをもとに意見を組み立ててしまっているというか、そういうことが私の問題ではないかと思っています。
ヨユメ: そうですね、それもありますね。 それは紛れもなくご自身の尺度ですべてをはかっておられるからですよね。
アナハラセ: そうです。
ヨユメ: それが日常どういうところに問題点、あるいは弊害として出てきているかというと、一般的に分かりやすい言葉でね、言いますと、思いやりのなさに通じるのですよ。 皆さん、アナハラセが思いやりの無い人間ではないのですよ。皆さんは夫々に真理を普及していこうと、このような道を選ばれたのですから、多くの方よりは思いやりもあり、勇気もあり、愛の物差しをしのばせて生きようと努力なさっている。 そういう意味で言ったのではなく、ご精進する意味において、思いやりとは同情することではないのですよ。 思いをやる。 どういうことかと申しますとね、もう何かを考えるときに「自分はこう」ということを頭からはずして、その方に自分がなってしまうとよろしいのですよ。 そうしないと本当の意味で、それをいつも訓練されて、訓練しておられますと思いやることなく、自分の思いがその方の思いなのです。 もっともっと精進されますとね、相手の方と自分の間に区別がなくなります。 そこに到達するまでは中々ですがね。 そのためには直ちに「自分がこの人だったら何をして欲しいのか?何をどう考えるのか?」と、すぐ置き換える。 その様な訓練をなされば思いやりというものがでてくる。 よく思いやりというのは優しく、親切に同情して、それではないのです。 そしてこの際だから申しますがね、同情とか哀れみ、お導きのはじめの頃にはね、思いやりというのを同情とか憐憫とか、そういうことでお話したかもしれませんが、それは同情の出来ない、そういう情のないことはいけないというお話をしたわけで、今、この段階ではね、同情というのはある意味で安物の感傷でしかないのです、厳しく申しますと。 本当にその方の愛をもって何かをするというときにはね、一段と厳しさが要求されて、時には真理を理解しておられない方の目には、非情に映ることすらありますが、ご自身の中に愛さえ持っておられれば、必ず通じるときが来るのです。 その信念をもってなさらなければいけません。 そして何か、たった小さな僅かなことでも、何方かが困って「あっ、これをしてあげたいな」と思うときに、ご自身がやってあげたいことではなく、「この人は今、何をしてもらうと一番助かるのかな?」、そして「この人のためになるのは何かな?」それを考えるわけですね。 その辺の訓練をアナハラセはなさらなければいけませんね。 それをご精進されると、あなたの中にもっていらっしゃる素晴らしい物が花開くのです。 その精進が出来ていないと、せっかくあるものが埋もれたままになってしまいますね。
それからもう一つね、しばらくご精進して成果を見せていただきたいのは、ご自身で意識されていらっしゃらないかもしれませんが、礼儀作法、言葉遣いは心得ておられるものの無礼さがある。 慇懃無礼というのでしょうか。 これはね、言葉に表したりしても「なんで傷つけるようなことを言ったかな?」と思うことがあるのですが、十分に人を傷つけてしまったり、あるいはあなたの意図する正しいことがそのために伝わらなかったりしてしますから。 そういうこともね、気をつけてご精進なさってほしいのですよ。
アナハラセ: はい。
ヨユメ: 今日はこの辺りにしましょう。
アナハラセ: ありがとうございます。
ヨユメ: これで終わりではないのですよ、皆様。 ご精進することはまだまだございますの。
それでは次に
トコロ: 私は、まずは宿題を与えていただいて、すごくそういうことを考えなければいけないという自分がちょっと情けなくなりました。 もっと瞑想のときにもっともっと反省しなければならなかったと思います。 そういう機会を与えてくださったことにとても感謝いたしております。
私が自分自身反省したのはたくさんあるのですけども、その中のひとつ、余りにも自分の答えをばかり考えていて、相手がお話してくださっていることをよく聞いていない、そういうときがあります。 それでどうしてそうなのかなと思うと、自分が正しくありたいとか、そういったことでいつも正しい答えばかりを探している。 そのために相手の人が言ってくださったことを正しく理解していない、そこからその人を正しく理解できなかったようなことがありました。 これからはまずは仰ってくださっていることをよく聞こうと思っています。
ヨユメ: なるほど、それに気付かれて反省されたわけですね。
トコロ: はい。
ヨユメ: それがご自身にとって一番大きな問題だと思われますか?
トコロ: いえ、それはまったく一つで、もう一つ大きな問題は、どうしても何かこれは正しいと自分で思い込んだもの、それといつも比較−それに照らし合わせている−それに対してこれは間違っているだとか、合っている、そういう自分もいけないと思います。
ヨユメ: それは常に裁定を下しているということですね。 それはもう皆様、日々されていらっしゃることで、トコロだけではありません。 そのように反省されたことはそれで結構です。 それもご精進ください。
しかしね、トコロ、トコロにとって今、一番ご精進いただきたいのは今、仰った二つのことではないのです。 和ですね、和を切るということは、霊的な意味では人をひっぱたくよりもいけないというか、お話しましたね。 そのようにね、ご自身が意識しておられるときもあり、また意識しておられずですが、どのように説明すれば良いでしょうか。 例えば和気、調和の取れた気ですね、皆様の言葉で「和気合い合い」という言葉がありまあすね、そのようなものがあるときに、そうですね、例えばその場の雰囲気を気まずくしてしまうとか、あるいはそういう中に入らず孤立している、気が繋がっていないご自分に気付かれてほしいのですよ。 時にはね、つまらない話をしているのかもしれせん。 あなたにとっておよそ興味の無い、つまらないお話かもしれませんが、何もそれが面白くないのに、楽しそうに笑えというのではないのですよ。 只、それでもね、そのような場においてさえ、そこにある和の気を切るということは慎まねばならないのです。 例えば、そこであなたがこういう話はするべきではない、例えば卑猥なお話がでていたとしましょうね。 そうしてそれは耳をふさぎたいほどいやな気分になるのだったとしたら、それは当然「そういうお話は不愉快だから止めてください」と言うことは宜しいのよ。 そしてあるいは人を悪く言ったり、そのような話で不快に感じたら「人の悪口を言う、それを聞くのは正しくないからやめましょう」とそのように言うのは宜しいのですよ。 ただそうではなく、周りになんと言いましょうか、溶け込まない、異質の気を流して気を絶つという、そういうことをご自身が感じておられないか、あるいはなさっていないかということをね、考えて、そしてそういうことがあれば反省していただきたいと思うのですよ。 わかっていただけましたか、お話、それとも ...
トコロ: 仰ることは大変分かりますが、私はそういう意味では皆さんがこちらに来られて長く暮らされていてその中に初めて入って来たわけですね、共同生活の中に。 とても難しいものを感じました。 仰るように、これから私はここで努力しなければいけないと思います。
ヨユメ: いえ、トコロ、このお仲間だけではないですよ。 他の...
トコロ: 他の和というのは
ヨユメ: 一人以上の人が集まったときの場は全てそうです。 お友達もそうですし、ご家族もそうです。 分かりにくいですか?
トコロ: (沈黙)
ヨユメ: ご家族とおられる時は、ご家族というのはね、一番和気が保ちやすい関係なのですよ。
トコロ: はい。
ヨユメ: そういうときでもご自身、その和、気を切っていると感じることは無いですか?
トコロ: 家族とですか?
ヨユメ: そうです。
トコロ: それは感じたことがないです。 たしかに遠慮したりすることはあると思いますけど。
ヨユメ: 和気はいつも保たれていますか?
トコロ: 私の家族と言いますと娘ですよね? そうではなくて両親ですか?
ヨユメ: ご両親、娘、家族、皆様の世界で呼んでいらっしゃる本当の家族、血の繋がったというのでしょうか、そういう方は皆、家族ですよね。 今、ここにいらっしゃるその方達だけでなく、あるいは例えばご友人でなくても、何人か人が集まった時に、必ずそこには気の流れがありましてね。そこに出来る気の流れが、穏やかで調和のとれたものなら宜しいのです。 それを皆様の言葉では、和気と呼ばれますよね。 そういったものが出来ているときに、そこに溶け込めていない。溶け込めていないくらいなら宜しいのですよ、でもそれを切ってしまわれることの無いようにということなのですよ。
トコロ: はい。
ヨユメ: またね、もしわかりにくかったらご自身で考えてみて、また質問があればお答えしましょう。
トコロ: はい。
ヨユメ: ご家族に限らないのですよ。 全然血の繋がりがない、友人と呼ぶほど親しくない、そういう方でもとにかく人が集まればそこに気の流れができます。 そうしたときにね、他人様でも誰でも本来はその方達とご自分の間に区別があってはいけないのですよね。 それ故にどのような人とでもその集まった所に調和の取れた気を流すことが出来る、そういう訓練をしていただきたいのですよ。 分かりましたか?
トコロ: はい。
ヨユメ: 先ほどのあなたが仰った反省というのはね、それは中々結構ですが、出来れば結構ですが、今、私がお願いしたことから比べると、それほど大切なことではないのです、よろしいですか。
それでは一番お若いパケサー、
パケサー: はい。 お若い方でそれで中々、年の功と言いますけども、年の功でもない幼稚な考えで、よく反省ばかりしています。 それでこの間でもね、ちょっと人を、シャマナにね、愛の形でシャマナも一生懸命私に教えていただけるんだけど、虫の居所が悪かったと言えばexcuseになるけども、それはそれでちょっと問題があって、自分が思ったことを吐き出したんですけど、それはそれでまた夜になってまた反省ばかりしています。
ヨユメ: でもシャマナであろうが、何方にであろうが、思った心の中にあることは言うのが宜しいのではないですか? 心にあるのなら言うべきではないですか? 念としてもって、出さないともっと相手に悪いものを投げかけますよ。 例えば、憤りだとかそういうものは、本当は感じなくて、人様に憤りなどを向けなくていいのが一番よろしいのですよ。 だけど悲しいかな感じてしまうわけでしょう。 感じてしまったものを上手に消化させて、そして気分を鎮めることができれば宜しいですが、そうじゃなくて、もやもやと思っていて、それが変に恨みにでもなってしまいますともっともっと悪い念をおこしますよね。 ですからそれをどのような形で仰るかですよ。
パケサー: でもかえってね、だしたからね、言葉にね、下手でも出して私の本当の気持ちを伝えたから、かえって自分なりに変な言い方だけど、すっきりして、ここに持たなくなったからそれはそれでいいかなと、
ヨユメ: そこが問題なのです、皆様ね、今のパケサーの言ったことで何か気付かれましたか?
皆さん: (沈黙)
ヨユメ: 心にあるもの、憤りを感じたら「傷ついたよ」と言うのは宜しいですよね。 今のパケサーが言ったことで問題になるのはね、自分の気持ちがおさまった、ということは相手に対する愛などひとつも無いのですよ。 相手に「こういうことをしたら、私は傷ついているよ、あなたも気付いて欲しい」という愛があったら、その都度ね、「今、私は傷つているよ」と言うことは良いのです。 それを耐えられなくなって、吐き出してしまえば自分がいいというのは、これはどんな時、いつでも皆様ね、自分が楽になるために、それはいけないんです。
パケサー: だけど反省しましたよ。
ヨユメ: いえ、そうではないんです。 私が申し上げたいのはね、言うことは宜しいの。 反省しなくて宜しいんです。 反省しなくていいのです、相手の方にね、「そういう言い方はよくないでしょう、そういう言い方をされれば、私は傷ついてしまうのですよ」と言うこと、それは相手に伝えることは何も反省する必要がないと言っているのです。 只、ずーっとためておいたものを吐き出して自分がすっきりするために言ったということは自分のことしか考えてなく、相手に知らせてあげて相手のためにも言ってあげようというものはなかった。 それが傷つけるのです。
パケサー: 分かりました。
ヨユメ: それとね、自分が面白くなく感じていたから、そういうふうに積もり積もって、なんと言いますか、爆発すると言うのですか、そのもとは何なのかを考えなさると宜しい。
パケサー: それも考えましたよ。 そして自分も反省しました。
ヨユメ: そしたらそれは何だったと思いますか?
パケサー: 自分がそれだけの、何て言うのですか、自分の、何て言葉に表したらいいか、そこまで努力というか、
ヨユメ: パケサーはね、よく反省はされているのですがね、的をはずしていらっしゃるのね。 例えばね、ご自分が本当にその人のためになると思ってなさっている行為でも、時には立ち止まってね、これはその人が自分に望んでいることかどうか、その行為に移す前、あるいは言葉に移す前に、立ち止まって考えて、それからなされば色々な面で、そう、誤解されたりすることも無いのですね。 これもさきほどアナハラセが言っていたのと同じ、自分の尺度で考えてやってしまうからなのですよね。 取った行為がこうだったから反省するという以前にね、そういう行為に出たそのもとは何だったか。 何かをする前に、例えばどういうふうに説明したら宜しいのでしょうか、一生懸命ね、人様のことを考えて親切にしてあげることは尊いことですが、それを疎ましく感じる方もいらっしゃる。
パケサー: それは言えるね。
ヨユメ: そういうことは多いにあるということをね、理解されなければね。 おわかりいただけましたか?
パケサー: それはこの度、妹と話したときによくそれを感じました。
ヨユメ: それでご自身でもお気付きかと思いますが、今、急にそういうことをなさったわけではなくて、今までずっとそういうきらいがあったのですよね。
そしてもう一つね、厳しいようですが、パケサー、それにね、反省事項として付け加えますのはね、「もうこれは自分なのだから今更...」というお気持ちね、お年は関係ないのです。 何年そのようにして生きてこられたとしても、あるとき光が差し込んで、真理に気付けば、もうその日から考えが、生き方が変わるように、反省して心から気付かれれば。 「もう私の性格はこうなんだから、今さら直らない」と決めてかかってしまわれるところが問題なのです。 本当に気付かれたら変わります。 本当に反省されたらご自分でも驚くほど変わります。 ですからお答えを先に差し上げたのです。
パケサー: 反省の仕方が私は足りないということですか?
ヨユメ: いいえ、そうではないのです。 次のお導きにはいりますから、後でトコロ、パケサーに説明してあげていただけますか、大丈夫ですか?
トコロ: はい。
ヨユメ: それではあまり時間がございませんので、もう一つの宿題ですね。 先日、人様に喜んでいただけること、人様のためになることと申しましたが、何か夫々に人様に喜んでいただけること、ためになることを難しく考えて、難しく考えすぎていらっしゃるようにこちらではお見受けしたのですが。 そして私が使った例えが悪かったのか、趣味というと、絵画だとか、音楽だとか、そういった高尚なものを考えていらっしゃいますが、そういう、例えば、名前の付けられないようなものでもよろしいのですよ。 そうすると何の得意もなく、何も特にこれをしたいとか、そういうものが無い人は、皆様の世界では無趣味というのですか、そのような趣味のことを言っているわけではないのです。 難しい例えになりますけどね、日々、人様と接して生きている瞬間、瞬間に喜びを感じ、接する人に安らぎを与え、喜びを与え、微笑みをあげられればね、そういう生き方をなさっている方は、あえて皆様が呼んでおられる趣味というものを持つ必要がないのです。 そういう意味からもう一度考え直して、あるいは皆様で話し合っていただけますか。 少し難しく考えてきておられます。 これは私の例えがよろしくなかったのかもしれません。 絵画だのをもちだしましたのはね、上手である必要がない、むしろまずいほうがいいときもあるということ。 上手くなくて良い、格好良く無くていい、人様から認められるような才能などなくてもいいということを強調したかったのです。 心打つもの、喜ばれるもの。 アナハラセが子供達に紙を折って喜ばせている、そのときの子供達の目を見ましたか? あれを趣味とは呼べないかもしれませんが、それだけにかぎらずね、そういうふうにそのような些細なことでも、与えることの喜びの大きさ、これもほんの例えですがね。 だから毎日、紙を折りなさいと言っているわけではありませんよ。 そういう意味でもう一度考えてお話し合ってください。
それでは皆様、ごきげんよう。
皆さん: ごきげんよう。